2008年12月30日

旅の終わりに、、、

28日の朝、混沌のインドを発ち、マレーシアの首都クアラルンプルへ。
ボルネオで出会ったマレーシア人の友人の家で一泊過ごし、朝早くにクアラルンプールを出て、昨晩上海に到着。
最近上海に転勤になったばかりの東京の友人と食事。
今夜北京へ夜行列車で向かい。
31日の明日午後、飛行機で東京へ、夕方東京に着く。

10日前にカルカッタを出てから、移動が続く。
大きなバックパックが一つと、中型のバックが一つ、合計35キロほどを持っての移動はかなりきつい。
10分も歩けば、両肩がしびれてくるし、担いだ後は、疲れのせいか、急激な眠気に襲われる。それに、バスや列車での睡眠に加え、乗り物の時間に合わせるため、短い睡眠時間が続く。

そんな疲れにも関わらず、移動は旅の中でも最も好きな時間の一つ。
めまぐるしく変わる景色の中で、次々といろいろな考えが頭の中をめぐる。
特にこの10日はこの8ヶ月の旅を振り返りながらいろいろなことに思いを巡らせている。

インドネシアの小島に始まり、オリンピック直前の北京、砂漠での植林、モンゴルでの皆既日食、香港、マカオ、ボルネオの大自然、ジャングルでの植林、インドのコミュニティーでの生活、混沌の都市カルカッタ、そしてヒンドゥー教の聖地バラナシと、沢山の場所に行った。

そして、各地で数え切れない人や生命と出会い助けられ多くのことを学んだ。

バスの運転手からお互いに一生忘れられない出会いとなった人々、
安らぎときれいな空気と食べ物を与えてくれた植物たち、
見て、嗅ぎ、感じた大地、風、水、、、
世界中どこにいても、毎日のように登る太陽と月、時に影や恵みの雨を与えてくれる雲たち、
生きるために必要な酸素、食べ物、服、建物を与えてくれた植物、動物を含む豊かな生態系まで、

旅の先々で触れたあらゆるものが無数に頭の中をよぎる。


今回の旅では、
生命、無機質な鉱物、酸素などの物質、光まで、
そのひとつひとつが複雑に絡み合い繋がり合い織り成す生態系が、自分たちの生と命をより豊かで色鮮やかで深みのあるものにしてくれていることを強く感じることが出来た。


そして、その思いは、今回の旅のテーマである環境問題に対する根本的な考え方を変え、自分の人生に対す考え方にも大きな変化を及ぼし、更には、生きることにより多くの喜びをもたらしてくれた。


明日からは、又、日本での生が始まる。
日本での慣れた生活に溺れることなく、旅で得たものを活かし、より素晴らしい世界で、より素晴らしい生を生きられるようにしたい。


Life is beautiful. 人生は素晴らしい、
Lives are beautiful. 生命は素晴らしい。

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2008年12月29日

繋がっている、、、

25日昼、南西インドにあるアムリタプリに到着。

チェンナイからの電車で、隣になった白人男性が同じくアムリタプリに行くということで一緒に来た。彼は、今回で三回目の訪問になるという。とても気さくで感じがいい。こんな移動中の出会いは、旅の醍醐味。


アムリタプリに着いて、早々、カフェテリアで昼食を頼んでいたところ、今回再会を約束していたバラナシで出会った日本人の友人と再会した。


わずか一日の滞在、心の通った友人がいてくれるのが何よりも心強い。

正直、宗教とか霊性とかまったく知らない自分がたった1日の滞在で、ここでのことを説明するのは難しい。
あえて、簡単に言うと、宗教団体ということになるけど、そう簡単にも説明できない。
アンマを中心としてそれぞれが霊性を高めていくということが基本的な理念になっている。
別に、団体に入っていない人たちもここに滞在して、アンマに会うことが出来るし、長く滞在することができる。

連日の移動疲れもあって、夕方に昼寝をし夜からアンマに抱きしめてもらうことにした。
アンマが抱いてくれることをダルシャンという。昼からはじまり、夜中の1時、2時まで続くこともよくあるという。その間、アンマはトイレや一切の休憩も取らずに、次々に人を抱きしめていくという。
因みに、アンマは55歳になるという、この点だけでもかなり脅威的なのは確かだ。

大きなホールに椅子が並べられ数百人の人がいて、インド音楽の生演奏が鳴り響く、そして、ダルシャンがおこなわれている壇上には沢山の人がいてアンマの姿は見えない。

左右で順番待ちをしている人の列があり、30分ほど順番に並び壇上まで着くと、やっと、アンマの姿が実際に見えた。
関係者、待つ人まで計で100人近くの人が狭い壇上にいる。緊張と高揚であたりは異様な雰囲気がある。
インド人、欧米人問わずに感激で涙を流す人も少なくなく、大半の人が深く感激し高揚している。

その様子から、アンマが神様のような存在もしくはそれに近い存在として人々に信仰されているのがわかる。

ダルシャンを待つ間、特に、アンマに対して信仰の気持ちがない自分には、逆に、この異様な雰囲気が気持ちを乱し、どんな気持ちでアンマに抱きしめてもらえばいいのか?がわからなくなった。

旅の最後としてここを選んだことを考えると、更に気持ちをどこに持っていけばいいのかわからなくなった、、、、、

そして、ダルシャンまで後10人ほどのところで、答えが見つかった。

抱きしめてもらうという行為は、心を開放しない限りはきっと意味がない。
身も心もその人にゆだねること。
だから、まずは、自分の身も心も全てをアンマにゆだねる。
それは、そのままアンマだけでなくこの世界の全てに身も心もゆだねることに繋がっていく。
そして、この世界の全てに感謝すること。
アンマという女性を通して、全てに繋がっていくこと。


なぜだかわからないけど、比較的永く抱きしめてもらっていた。
10数秒ほどだろうか?
耳元で何かを囁いてくれたがよくわからなかった。

特に、そういうことを求めていなかったからだろうか?
正直、僕には、アンマから何か特別なものは感じなかった。


確かに、今回アンマのおかげで、前よりも世界と周りと深く繋がっていること、そして感謝の心を感じられるようになった。

多くの人が、アンマにひかれる理由はこれかもしれない。

もう一度、世界と繋げっていることを感じることが出来、

全てに世界に対し感謝の気持ちを湧き上がらせてくれる、

そして世界はより鮮やかに深みをおび見え感じることができる。
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12月24日 聖者に抱かれに、、、

カルカッタから、電車で24時間かけ、インドで最初に訪れた南の都市チェンナイへ昨日到着。

オーロビルで3週間一緒に過ごした日本人の友人、そして、カルカッタで3週間前に出会った友人と再会。
それぞれに大切なものを求め旅をしていて、こうして出会えたことが嬉しい、お互いに、何かを交換できた。

そして今日、夜行列車で、南西インドにあるケララ州へ向かう。

アンマというインド人の女性聖者を訪ねにいく。
インドでは、精神的なリーダーとして人々を導く人や、何か特殊な能力によって病気を治したり奇跡を起こすような人のことを聖者としてあがめ、信仰することが多い。

アンマがおこなうことは、サイババのように手から白い粉を出す奇跡でもなく、
ただ、人々を抱きしめるということ、それだけ。

抱きしめることで、人々に愛を与え、癒しを与える、時に、相談にのってくれたりメッセージを与えてくれたりするという。
既に相当な数の人を世界中で抱きしめてきた。

無防備になる抱きしめるという行為は、シンプルなようで簡単ではない。

アンマとその団体について特に詳しいことは調べていないけど、
ワールドツアーを毎年やっていたり、施設や団体自体もかなり大規模なものだったりと、ビジネス的なところがどこか胡散臭く感じさせる。
しかも、ここはなんでもありのインド。

ただ、実際に抱きしめてもらった何人かの友人の感想は、みんな予想以上に良かったというものばかりだった。

疑ってばかりいてもしょうがない、
聖者だろうが偽者だろうが、単純に誰かの胸に抱かれて旅を終わるのも悪くない。

抱きしめるという単純な行為に、何か大切なものがあるような気がした。
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2008年12月22日

生きること! インドのスラム街より

3日前に、バラナシからカルカッタへ戻って来た。
どうしても、一つやり残したことがあった。

前回の滞在では、カルカッタの町の混沌とした様子と大気汚染の酷さ、マザーハウスでのショッキングンな風景、そして下痢に見舞われ、納得するところまでカルカッタの町を見れていなかった。
特に、貧困者の生活や人生観、そして彼らが投げかける人生やこの世界に対するいろいろな疑問への答えを、もう少し追及したかった。

旅のはじめ中国の砂漠植林ボランティアのときに、カルカッタのスラムで活動するNGOを訪ねた話を聞いた。
自分たちの人生をかけて、スラムの人々を助けようとしている夫婦がいると、、、

訪れた場所はカルカッタの中心から10分ほど車で走ったところにあるダーパという10万人の人が住む巨大スラムの一角。
この一角は50年以上前から、大都会カルカッタのゴミ捨て場として使われてきた。
同じ頃、都市での仕事を求めインド中からカルカッタに多くの人がやってきたが、まともな生活が出来るような仕事にありつけるない人たちが集まり、ゴミの上にスラムが出来ていった。

ただでさえ汚いインドの街のゴミの上に出来たスラム、想像できる限りの劣悪な生活環境がここにある。

廃棄物の規制などまともにあるわけのないインド、あったとしてもここでは汚職でまったく何の規制もない。
そんな状況で、産業廃棄物や医療廃棄物に含まれる汚染物質の量と種類はとてつもないだろう。この点だけ見たら、戦場の方がまだましかもしれない。
下水システムがないためにトイレや排水の水は全てこの川に流れる。
当然、常に汚臭がする。
流れる川の湖面はゴミで埋まり、堆積したヘドロからガスが出てそこら中から泡がポコポコと出る。
そして、その川のすぐわきでは、ブロッコリーなどの野菜が作られ、しかも、たっぷりの農薬と化学肥料をつかって育て、野菜は街へ出荷されている。


スラムの住民には、チフス、小児ガン、皮膚病、障害児、コレラ、デング熱などなど、
劣悪な生活環境、環境汚染がもたらすあらゆる病気が溢れる。
NGOが持つ、救急箱には薬が溢れるが、当然、薬だけでは間に合わず、バタバタと人が死んでいくという。

仕事は、すぐ近くにまだあるゴミの山から、プラスチックなどリサイクルできるものを集めて売ることや、街での露店、ゴミ収集、などなど、
大体、一日中働いても50円くらいにしかならない仕事ばかりだ。
当然この金額では、十分に暖を取ることも、十分に食べることも、十分に教育を受けることもままならない。なんとか生きていくのが精一杯の状況になる。

そして、そんな状況に、更に追い討ちをかけるようなことが起きている。

インドの急激な経済発展の中で、この街にも開発の波が打ち寄せている。
空港からカルカッタの中心街へといく道路がスラムのすぐ脇を走る。
そのために、誰もが知っているいくつかの世界的なホテルの建設が予定されている。
政府がお金欲しさに、大企業に土地を売ってしまった。
既に、昨年スラムのある一角は、大型ブルトーザーなどを使った強制立ち退きがおこなわれ、土地は政府に奪われてしまった。

カーストと呼ばれる宗教的な階級制度に始まり、インドでは社会全体に腐敗がはびこる。

元々、政府の土地とはいえ、スラムの人たちから家賃を取り、それなりに生活を認めてきた。
そして、もっと大きなお金が入るとなったら、今度は、そこで生活している人たちの命を考えることもなく、力づくで、追い出そうとする政府。
そして、それに対して、何も言わない世界的な大企業の姿もある。
全ては金、命よりも金が優先される。
しかも、このスラムに住む人たちよりも遥かに良い生活環境で生きている人たちを、更に豊かなにするために。

そんな状況を助けるために、住人を田舎に大移動させようとしているのが、今回訪ねたNGOの活動の一つ。
といっても、それなりに大きな土地を購入して、沢山の人を移住させるというのはそう簡単な話ではなく、計画はなかなか進んでいない。

ここのNGOのもう一つの活動は、世界中で貧困をなくす最良の方法の一つとして広く知られているマイクロクレジットをおこなっている。
スラムの人たちが何か新しいビジネスをしたくても、お金を貸してくれるような銀行はいままで存在しなかった。
そうなると、貧困から抜け出せる可能性はかなり少ない。高いリスクを負って高利貸しからお金をかりれば、返済地獄に陥る可能性が高い。
そこで、貧困層のために小額からの融資を可能にしたのがマイクロクレジット。
ノーベル平和賞にも輝いたバングラデッシュのウスユドゥノユヌスに始まり、いまや世界中に広がっている。

そして、今回のNGOはそれを無利子でおこなっている。
すでに、何人かの人がNGOからの融資で小さな露店を開くことができ、生活の向上を図ることが出来た。

スラムでの活動は想像以上に難しい。
反政府的な行動をしているために、当然、命の危険もある。
今回訪ねた時も、話を始める前に、土地を買収した企業名を出さないことや、基本的にこの話をすることは禁止されているので、英語では文章をできるだけ書かないことなどいくつか注意事項を言われた。

スラムの人々を助けに来ているのにも関わらず、ちょっとした勘違いで飲み物に毒を盛られてたこともあったという。
なんの教育も受けず、秩序などない混沌とした世界で生きてきた人々には、僕たちが考えるような常識は通じない。
政府や企業にずっと虐げられて生きているのだから、政府や企業にはじまり、他人を信じることができないのもわかる。

更に健康面の心配もある。劣悪な下水システムによって大量の蚊がいる。
デング熱、マラリアなどにかかる可能性がある、まくっていたズボンの裾を下ろすように言われた。

そんな状況で、人々を助けるために活動しているのは、IBMの専属ヨガトレーナーだったインド人の男性と、彼の奥さんであるフランス人の女性。
二人とも、スラムとはかけ離れた環境で生きてきた。
そして最近やっと、スラム出身の信頼できるインド人女性がスタッフとして働き出した。


環境をテーマに旅をしてきたこの半年。同時に40冊近い環境に関する本を読み、環境について更に深い理解を得ようとしてきた。
そんな中で繰り返し目にしたことが、環境問題の主要な原因の一つが人口問題と、貧困問題であるということだった。

そんなこともあって、貧困をこの目で見てみたいという思いもあった。
そして、もう一つ、環境の旅をしていくにあたって、環境問題の本質が命の問題であることに気がつき、もう少し、命ということを追求したかった。

そんな思いもあって今回このNGOを訪問した。
そして、最後、こんな質問をした。

「こんなに酷い環境の中で、それでも、彼らを生へと動かしているものは何?」

返ってきた答えは、
「単純に生き続けたい、生きていたいという、生への強い想いが、彼らをこの劣悪な環境の中でも生かしている」というものだった。


自分たちは「人間」である前に「生命」つまり「生きる命」であり、
その中には30億年の生命の進化の過程で変わることのなかった生への強力な意思と、
織り成されてきた生きることへの叡智が織り込まれている。

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2008年12月19日

生きることの意味

「生きることの意味」など、どうでもいい?

インドに来るまで、そんな風に考えなかった、生きることに何か素晴らしい意味があるって信じてた。


インドに来て、生きることの生生しさを見せられた。

一生路上で劣悪な仕事をし路上で死んでいく最下層のカースト(階級)の人々の姿は、すぐそばの路上で同じように寝そべる野良犬たちや牛たちとまったく変わらない。

自分たちが持っている奇麗ごとの生きる意味を、路上生活者に押し付けることなどできない。
そしたら、きっと、彼らに生きる意味や価値がないことになってしまう。

そんなはずはない、目の前に自分と変わらない命が確かにある。

動物たちや、植物と変わらない、必死に生きようとする生命の姿がただそこにある。

生きて、そこにあること、それだけで、十分に思えた。
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時空を超えた場所バラナシ

バラナシの町を歩いていると、時間を超えたような不思議な感覚にさせられる。

狭い石造りの町並みは何百年前とまったく変わらない、
牛が歩き、建物の上では猿が騒ぎ、巡礼に来た人たちが昔とまったく変わらない服装で歩き、死者を運ぶ人たちが賑やかに駆け抜ける、、、

今、自分はどこにいるのだろう?

神は存在するのか?

人生や世界に対する沢山の疑問が駆け巡る。

神秘的で、感動的なこの地球、世界で生きることの素晴らしさが込み上げる。

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生と死

食事は多くの植物や動物の命(生)を食べているということ、

呼吸は植物という生命によってできた酸素を吸っていること、

服は植物や動物の死骸を着ること、、、、、、、、


自分自身の生のために多くの植物や動物などの生命の命が使われている。


実際は、世界や自分たちの生活には死が溢れている。

死は、否定的なものではなく、生をより力強く豊かなものにしてくれる。

生と死という絶対の法則の中で、
日々忘れがちな自分たちが「生きている」という根源的なことをバラナシは気付かせてくれる。
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12月18日 満月の夜にガンジス河で、、、、

薄っすらと靄のかかった夜空に満月が輝き、いつにもましてガンジス河は神秘的に流れる。

そんな月明かりの中、バラナシで出会った素晴らしい友人2人と共にボートに乗った。
巡礼者たちがするように、小さなキャンドルと沢山の花を、葉で出来た手のひらほどの皿に載せ河に流す。

神秘的な満月の明かりの中、ガンジス河に流れていくキャンドルの光が、生の儚さ、命の儚さ、人生の儚さ、を思い起こさせる。


そして、そんな気持ちを、素晴らしい友人と、素晴らしい場所で素晴らしい瞬間を過ごすことが出来たことの喜びが上回る。

生命、人生の素晴らしさ、美しさ、、、

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2008年12月13日

文明の末に、心はどこに?

文明の末に、人は何を得たんだろう?
最も進んだ文明の中で生きているつもりの日本の生活と昔のように宗教が大きな意味を持つインドを較べて思った。

日本では、飢えて死ぬこともないし、戦争に出兵する必要もない、言論や思想の自由もあり、洗濯機、テレビ、冷蔵庫、そして携帯電話にipodまで、より快適で物質的な豊かさは得ることが出来たかもしれない。

しかし、精神的により高い生を生きることが出来ているだろうか?

自分の欲を満たすだけの生き方が高度な人間と言う種の生のあり方なのだろうか?

愛情を増やし、憎しみを減らせたか?

尊敬を増やし、偏見を減らせたか?

人間には心があり、精神的な生き物なはずなのに、
すっかり心をどっかに置き忘れて生きている自分たちが今ある。

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ヒンドゥー教の聖地にて、、、

インド最大の宗教ヒンドゥー教の聖地バラナシ。
この街を流れるガンジス河には、多くのヒンドゥー教徒が巡礼に来る。
その中には、ここで死を迎えるために、自分の火葬のために必要な薪代を何とかして用意し遠方から歩いてくる人もいるという。
バラナシで死を迎えることが出来れば、永遠に続く生と死の輪廻からの解脱をすることが出来るといわれている。
そして、ここは世界で人が住み続けている最も古い都市のひとつにあげられる。

そんなこの街の独特の空気は、実際にこの街を歩いて見ないとわからない。

川沿いの町並みは車が通れないほど狭く石造りで迷路のようになっていて、
その路地を、ババと呼ばれるヒンドゥー教の行者、神聖視される牛、各国からの旅行者などが行き交う。
忘れてならないのが猿たち、地上にはあまり降りてこないようだけど、まるで森の中のように建物から建物へと自由に飛び交っている。

そして、狭い路地を抜けガンジス河のほとりに行けば、川岸のゆったりとした情景の間に火葬が執り行われ、その隣で洗濯や沐浴をする人たちがいる。

過去と未来、この世とあの世、人間と動物、生と死、、、
時間と空間を越えたような不思議な感覚にさせられる。

ここでは、数千年間変わらない風景が流れ続ける。
インドがイギリスの植民地になろうと、人々が携帯電話を所有しようとも、インドの探査機が月に着陸しようが、
人々が変わらず信じ続けてきたものがある。

その強力な人々の信念がバラナシという町のひとつひとつを築いてきた。
そして、そこには未だに人々の信念が溢れている。

それでは、日本の自分たちが信じて来たものは何?
そして、日本に溢れている信念は?

金? 物?

金も物も人間には必要なものだと思う、
しかし、それ以上に精神的なものは人間に欠かせない。

バラナシと同じように人々の信念が造り上げた東京の街を歩いていても、
目に入るもの、感じるものは全て金や物、精神的な物事などほとんど感じることがない。

もちろん、ここバラナシにも金や権力は存在するけど、
今の日本はもう少し精神的なものごとを取り戻していく必要があると思う。
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2008年12月08日

12月1日 不完全な世界の中で、、、

マザーハウスでのボランティア初日後は、横たわる沢山の患者の光景が脳裏から離れずに食欲の出ない一日を過ごした。
その翌日はボランティアを欠席することにした、2日連続は少し気持ちが重い。
更にその翌日、早朝からボランティアに向かうも、どうも調子が悪い、精神的なものからきているのか?と思うも、やはり調子が悪い。結局、ホテルに引き返すことにした。

それ以来今日まで、お腹の調子が悪い。それほど、酷い下痢ではないけど、なにかにあたったらしい、そんなわけで、すっかりホテルに籠もっている。
正直、調子の悪いときにカルカッタの街を歩くのはかなり堪える。排気ガスの匂いや、汚物やゴミの汚臭が漂い、元気でも半日も街を歩けば、喉が痛くなるか、軽い頭痛に見舞われか、精神的にかなり萎える。

結局、マザーハウスでのボランティアは一日しかできなかったが、明日カルカッタを離れガンジス河での沐浴が有名なヒンドゥー教の聖地バラナシへ行くことにした。

今回のマザーハウスでのボランティアでは自分の弱さを痛感させられた。

介護や病院という場に慣れ親しんでこなかったせいか、それとも自分の感性が貧しいせいなのか?
ボランティアをすることの喜びより、目の前の現実から受けるショックの方が大きくどうしても乗り気になれない自分がいた。
しかし、そんな自分とは別に、笑顔いっぱいでボランティアをする人たちも沢山いた。

カルカッタの混沌とした街の状況のなか、貧者として路上で生まれ一生を過ごし死んでいくという現実は、ほんの数日だけ傍観していくような旅行者にはそう簡単にはわからないだろうとおもった。
それに、カルカッタの街の現実を知ったとしても、マザーテレサのように人々を助ける行動をとることが出来ない自分に、後ろめたさを感じ、問題の核心に迫っていこうといま一歩踏み出せない自分がいる。

不完全で矛盾に満ちたこの世の現実を覆い隠すことなく見せてくれるカルカッタの街が、自分の中の不完全さや矛盾も露わにしてくれる。

そして、そんな世界の中、必死で生き続けようとする生命の姿もここにある。

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11月 28日 死を待つ人の家

今日は午前中、マザーハウスでボランティアをしてきた。
孤児や障害者の施設などもあるが、カーリガートと言う、別名、死を待つ人の家と呼ばれる場所でのボランティアをすることにした。

カルカッタの街には、沢山の路上で生活する人々がいる。
仕事は何をしているのか?
家族はどうなっているのか?
一生路上にいるのか?
どんな生活をしているのか?
詳しくはわからないけど、それでも、彼らには、その状況から抜け出すような教育や社会的なサポートや平等、そして仕事を得たとしても十分な賃金というものは与えられてきていないだろう。

そして、人生のある時期に病気をしたり体力が衰え生きていくための能力が衰えていく。
しかし、家族や社会のサポートがないために、そのまま路上で衰弱し死んでいく。

カーリガートではそんな人たちを施設に運び医療的な施し、食事、寝床を与えている。
そして何よりも、大切なことは一生涯虐げられる立場で生きてきた人々に、愛を与えるということ。

その後、回復した人は施設を出て、回復出来ずにそのまま死を迎えていく人たちもいる。
今朝は布で覆われた2人の方の遺体をみた。

前半の仕事は主に、食器洗いや洗濯をし、
その後、40人ほどの男性患者が3列に並んだベットに横になっている大きな部屋へ。
そこで、それぞれの患者さんに薬と水を与える仕事をした。

何人かの患者さんはかなりの重症で、ほとんど動くことができない。
それ以外の人は比較的元気そうに見えるが、自分で歩くことができないくらいに体力も筋力も衰えている。
路上での生活の悲惨さが全身からうかがえる。

一点をただ見上げている人や無表情で意識の朦朧とした人たちも多い、、、
体の苦痛のせいなのか?
希望も持てずに路上で生活してきた時のようにただぼうっとしているだけなのか?

そんな状況を見ても、自分の中には、そんな人たちを包み込むような愛が湧き出してくることもなく、その悲惨な状況から死や苦痛や不幸を見てしまい酷く重い気分になってしまった。

死や苦痛といった生が抱えるもう一つの現実が突然眼前に現れる。 

日本という社会に生まれたこと、そして自分の個人的な人生の経過において、あまりそういったことに出会い向かい合う機会がなかったことを実感する。
人生には必ず自分もしくは親しい人の死や苦痛といったものと向かいあわなければいけないときが来ること、そして、その時に、自分がどう対処し、どんな心の状態で居られるかは凄く重要なことだと思う。

それに、自分に直接関係ないとしても、今同じ地球に不平等や矛盾による悲痛があることを知ることも大切なことだとおもう。

ベットで横になる患者さんの姿が脳裏からはなれない。

天井を見つめているのか?
それとも、視力も意識もまともにない状態でただ何かを見ようとしているのか?

不思議とそんな状況から、
そこには、人というよりも一つの生命がただ存在しているように思えた。

人として生きることの意味などどうでもいい、
動物や植物や他の生命と同じようにただ生きるという純粋な生の姿がそこにある。

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カルカッタの路上から、、、

インド3番目の大きさを誇る大都市カルカッタ。
とにかく人が多く汚い、今まで訪れたことのある都市の中でも最も酷い。

道路の脇で寝ている人、ホームレスの家、路上に置かれた井戸で体を洗っている人、道路の片隅でご飯を食べる人、やたらと話かけてくる物売りと物乞い、残飯をあさるカラス、沢山の野良犬に野良猫たち、排尿と排気ガスと排水の匂い、三輪車のタクシーと人力車の群れ、灰色の排気ガスを巻き上げて走るボロボロの車、まるで牢獄がそのまま走っているようなバス、、、

とにかく、日本からは想像できないような騒々しさと空気の悪さ。

そんな街を歩いているととにかくいろいろなことを考えずにはいられない。
その中でも、道路の脇で寝ている人や物乞いなど貧困の人たちの姿は、
「同じ人間のはずなのに?」という疑問を投げかける。

きっと生まれた時から死ぬまで家を持たず教育も受けず、汚い都会の隅で生き続けるのだろう。
そして、そんな人々とは対照的に生まれたときから裕福な立場で生まれ生き続ける人たちもここインドには当然いる。
生まれてくる立場によって決定的な人生の違いがある。貧者にうまれれば、貧者のままで、そこから抜け出すための教育も機会も与えられない。

同じ地球、同じ人間社会で起きている疑うことの出来ない事実。
夢でもなければ、作り話でもない、これが現実。

そして、今はインドも日本も同じ世界的な資本主義経済の下に存続し、
インド・カルカッタの貧困と日本の豊かさは繋がっている。

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命は水!

旅をしていて「水」の大切さを実感させられる場面にとにかくよく出会う。

山やジャングルといった自然の中へトレッキングに行く時には必ず水を持っていくし、
インドのように衛生状況が悪い場所では常に細心の注意を払っていなければいけないし、
中国の沙漠でも、ボルネオのジャングルでも、インドでも、植物の命のために水が欠かせない、
汚れた食器や服を洗うために水が必要になる、、、、

水がなければ生命は生きられないし、人間の豊かな文明生活もないをこと痛感させられる。

しかし、今、人類の文明活動でその水が大量に使用され汚染され不足し始めている。
つまり、不足した分誰かの生活環境が悪化し、生命は存続の危機に瀕する。

そして、アフリカで水不足による紛争が起きているにも関わらず、環境破壊による水不足はまだ実際には起きていないと考えるのは、まったくの間違い。
一つの地球という球体の中で起きている以上環境問題には、国境などまったく関係がない。

例えば遠いアフリカのどこかで起きた水不足によって、水を求め土地を離れた人々が周辺に広がる。
そこで水を求めた争いが起きる、もしくは、平穏だったとしても、人口過剰になったその場所でも水不足が起こり、又、更に多くの人々が周辺へと水を求める。
そして、その輪は世界中にどんどんと広がっていく。

河川、地下水、氷河、雨、湖、人が使うことが出来る世界中の水資源をあげていくとこんな感じになる。
そしてその一つ一つが、水力発電、下水処理、産業、生活排水、農業など人間の文明活動によって大量に使用され、汚染されている。

水源の一つが使えなくなったとしても、人間の文明活動は減ることはなく、その負担はそのまま他の場所へと移り、そして、その場所がまた使えなくなるまで汚染さるか使い切られる。
そして、やがては、地球上のほとんどの水資源が汚染され使いつくされてしまう。

そうなれば、当然文明活動は衰退し命は存在しつづけられない。

生命にとって必要不可欠な水、
水が汚れれば自分たちも汚れ、
水がなくなれば、自分たちもなくなる。

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posted by taku at 15:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 環境の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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